根本治久

現代日本のシステムの起源は、1940年頃に導入された「戦時経済体制」である。日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など、日本経済の特徴と考えられてきたものは、それまで日本にはなかったもので、戦時経済のために人為的に導入されたものだ。これは、戦後にまで連続している。
例えば、大蔵省では人事も仕事の進め方も、すべてが連続し、終戦など別の世界の出来事のようだった。 制度の連続性以上に、さらに重要なのは、官僚や企業人の意識の連続性だ。1940年体制の基本理念は、それまでの日本人が持っていたものとは異質であるにもかかわらず、いまだに日本人を支配している。
 日本経済の基本的メカニズム「日本型システム」は、高度成長の中心であったが、もともと1940年前後に総力戦を戦うために集中的に整備された、戦時経済体制のシステムである。 官僚体制も戦時期に大きく変わり、今日まで続いている。民間に対する官庁の権限は、もとから強かったのではない。1930年代に、昭和恐慌を背景に経済統制が始まった。「事業法」が作られ、事業活動にたいする介入が始まった。
さらに、第2次近衛内閣の「新経済体制」で「統制会」という業界団体が作られ、官僚による経済統制の道具になった。営団、金庫など、今日の公社、公庫んぽ前身もこのときつくられた。
革新官僚とよばれる人々(岸信介など)は、企業は利潤追求ではなく、国家のために生産性を上げるべきだ主張し、企業の所有と経営の分離(民有国営)、古典的な所有概念の修正(所有しなくとも国家は企業を経営・管理できる)を行ない、現在まで官僚の意識に大きな影響を与えている。
現在の官僚たちは、明治の「天皇の官僚」ではなく、戦時期の革新官僚の子孫である。 財政制度も、この時代に改革され、現在まで続いている。
戦前は、地方財政はかなりの自主権があり、税体系も外形標準課税中心だったが、1940年の税制改革で、源泉徴収制度が導入され、また、法人税も作られ、直接税中心になった。さらに、税財源が中央集中化され、それを補助金として地方に配るという今日のシステムが確立された。 しばしば日本の社会経済システムは、日本の民族的特性といわれるが、そうではない。それは、日本の歴史においては特殊で例外的なものであり、変革は十分可能である。
そして、現体制の変革は、日本の今後の発展にとって重要な条件である。